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カルロ・ポンティ
Carlo Ponti (製作) |
ディノ・デ・ラウレンティス、アルベルト・グリマルディと共にイタリア映画の黄金期を築いた名プロデューサ。1913年(10年、12年など諸説ある)12月11日、ミラノで生まれる。大学で法学博士の学位を取り、41年にミラノのATA社で映画プロデューサーに就任。戦後、ローマのルックス社での仕事を経て49年に独立。翌年、ラウレンティスと共同で製作会社を設立する。57年にコンビを解散した後もアメリカ資本を得て、ハリウッドとヨーロッパを股にかけた活動を展開。フランスでジャン=リュック・ゴダールに「軽蔑」(63)を撮らせ、イギリス監督デヴィッド・リーンの大作「ドクトル・ジバゴ」(65)を製作。ミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」(66)、「砂丘」(70)をプロデュースし、アンディ・ウォーホールの名前を前面に出した「悪魔のはらわた」(73)を企画するなど、国際市場に通用する娯楽超大作と芸術的な小品を織り交ぜた鋭敏な製作姿勢で、第一線の製作者として活躍した。
デビューさせた映画人には、アルベルト・ラトゥアーダ、ピエトロ・ジェルミ、フランコ・ゼッフィレッリらの監督、俳優はマルチェロ・マストロヤンニ、ジュリエッタ・マシーナ、ジーナ・ロロブリジータ、アリダ・ヴァリと、そうそうたる顔ぶれが並ぶ。私生活では、女優のソフィア・ローレンとの重婚スキャンダルをマスコミに騒がれ、苦難の末に結ばれた逸話が有名。妻ローレンとのコンビ作では本作のほかに、名匠ヴィットリオ・デ・シーカがメガフォンを取った「ふたりの女」(60)、「昨日・今日・明日」(63)、「ひまわり」(70)などがある。 |
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マリオ・モニチェッリ
Mario Monicelli (第1話 監督・脚本) |
1915年5月15日、イタリア、トスカーナ州の海に面した町ヴィアレッジョで生まれる。ミケランジェロ・アントニオーニらとほぼ同世代に当たる長老監督で、30年代中頃に助監督として映画界入り。初期にはステファーノ・ヴァンツィーナ監督と共に喜劇王トート主演のコメディー作品を量産した。57年に「PADRI
E FIGLI(父と息子)」でベルリン映画祭監督賞を受賞。戦争の混乱を笑い飛ばした痛快篇「戦争・はだかの兵隊」(59)はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞に輝き、この作品で日本初登場。マルチェロ・マストロヤンニを主演に迎え、労働闘争問題を描いた社会派ドラマ「明日に生きる」(63)は、「キネマ旬報」ベストテン第2位に選ばれた。日本での劇場公開作は、豪華女優総出演の艶笑劇「ゴールデンハンター」(ビデオ題「カサノヴァ'70」)(65)、モニカ・ヴィッティ主演のコメディー「結婚大追跡」(68)、人間ドラマの佳作「女たちのテーブル」(85)くらいで、あとはジャンカルロ・ジャンニーニとゴールディ・ホーンが共演した「アニタと子猫と...」(79)、アドベンチャー喜劇「マンマ・ミーア人生」(87)がそれぞれTV、ビデオで紹介されているのみ。本国ではほぼ年1作のペースで良心的な作品を発表し、その活動は現在も続いている。 |
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フェデリコ・フェリーニ
Federico Fellini (第2話 監督・脚本) |
1920年1月20日、アドリア海に面した北イタリア有数の観光地リミニで商人の息子として生まれる。幼少の頃からサーカスを追って家出をしたり、駆け落ちしたりと自由奔放な性格で知られていた。やがて絵の才能を活かして、フィレンツェ、ローマへと渡り歩き、似顔絵描き、小説の挿絵画家、新聞・風刺雑誌への寄稿、ラジオ・ドラマの台本など、さまざまな職業を経験。ネオ・レアリスモの巨匠ロベルト・ロッセリーニから依頼を受けて「無防備都市」(45)の脚本に参加したのを契機に映画界入り。50年にアルベルト・ラトゥアーダと共同で「寄席の脚光」を演出、52年に「白い酋長」で監督として独立した。54年の「道」で世界的な名声を手に入れ、「崖」(55)、「カビリアの夜」(57)と、人間の内面的な救済を主題にした作品を撮り上げる。その後、視点は次第に物質主義社会の風刺や、現代人の倦怠、監督自身の心象風景といった抽象的な題材へと向けられ、絢爛たる映像美がトレードマークとなっていく。特に、賛否両論を巻き起こした「甘い生活」(59)、モスクワ映画祭のグランプリとアカデミー外国語映画賞を獲得した「81/2」(63)は、絶頂期の代表作として有名。私生活では、43年に自作のラジオドラマの出演者として知り合った女優のジュリエッタ・マシーナと結婚。華やかな業界にいながら特に浮名を流したことはなく、お互いに生涯の伴侶として添い遂げた。93年10月31日、心臓発作のため逝去。遺作は「ボイス・オブ・ムーン」(90)。 |
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ルキノ・ヴィスコンティ
Luchino Visconti (第3話 監督・脚本) |
1906年11月2日、ミラノの名門ヴィスコンティ公爵家の三男として生まれる。貴族の格式を重んじる父の厳しい教育を受け、青春期には演劇やチェロの演奏、乗馬と競走馬の飼育に熱中した。だが、贅沢な生活を保証された人生に空虚さを感じ、次第に書物の世界に没頭し、社会問題への関心を高めていく。30歳で単身パリに旅行し、映画館で観たジャン・ルノワール監督の「トニ」(35)に強い感銘を受ける。幸運にも親戚に当たるココ・シャネルの手引きでルノワールを紹介され、「ピクニック」(36/完成は46年)などで助監督を担当。39年に帰国すると左翼系映画雑誌の編集者たちと交流を持つようになり、ルノワールが温めていた企画を映画化した「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(42)で長編監督デビュー。しかし、不倫をリアルに描いた内容がファシズム下の厳しい検閲により上映禁止処分を受ける。やがて終戦と共に始まったネオ・レアリスモ運動の旗手として、シチリア島を舞台に漁民の貧困と悲惨を描いた「揺れる大地」(48)で世界的な名声を得る。「若者のすべて」(60)などで見せた、イタリア社会が抱える矛盾と問題点に切り込む作風は、円熟期に入ると「山猫」(63)、「ベニスに死す」(71)、「家族の肖像」(74)など、崩壊する貴族階級の哀感と人生の終焉を描く内容へと移行するが、妥協を許さない荘厳な演出と鋭い観察眼は生涯衰えることはなかった。図らずも遺作となった「イノセント」(76)を遺し、76年3月17日、こじらせた風邪のためローマで死去。 |
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ヴィットリオ・デ・シーカ
Vittorio De Sica (第4話 監督) |
1901年7月7日、イタリアのフロジノーネ州ソーラ生まれ。貧しい家族を養うために事務員の職を得る。十代の頃から演劇に熱中し、兵役時代も劇団に加わり、プロの俳優を目指す。やがて活躍の場は映画にも広がり、軽妙な喜劇物を中心に国内屈指の人気スターとなる。40年からは監督業にも進出。5作目となった「子供たちは見ている」(42)でネオ・レアリスモの先駆者としての評価を得る。続いて「靴みがき」(46)、「自転車泥棒」(48)、「ウンベルトD」(51)などの名作を発表。ロベルト・ロッセリーニらと並ぶイタリア映画界の巨匠となった。本作以降は「昨日・今日・明日」(63)、「あゝ結婚」(64)など、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニを主演に迎えたコメディー作品に腕を振るい、独自の境地を開拓。同時に、ソフィア・ローレンにアカデミー賞を与えた「ふたりの女」(60)や「ひまわり」(70)などのヒューマニズムに溢れた名作を撮り上げる。晩年には「旅路」(74)を監督し、74年には「処女の生血」「あんなに愛しあったのに」に俳優として出演するなど、最後まで映画人として精力的な活動を続けた。私生活では、33年に女優のジュディッタ・リッソーネと結婚したが39年に離婚。42年から同棲していたスペイン女優のマリア・メルカデルと68年に再婚し、二人の息子を授かる。後に長男マヌエル・デ・シーカは作曲家に、次男クリスチャン・デ・シーカは俳優となった。肺腫瘍の摘出手術を受けて間もない74年11月13日、73歳で永眠。 |
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ニーノ・ロータ
Nino Rota (第2・第3話 音楽) |
1911年12月3日、ミラノ生まれ。音楽家一家の出身で、わずか11歳でオラトリオを、14歳で3部構成のミュージカルを書き上げるなど、幼い頃からずば抜けた音楽的才能を発揮し、神童の名を欲しいままにする。17歳でローマのサンタ・チェチリア音楽院を卒業、奨学金を得て2年間米国に留学。作曲法、指揮法、音楽史などを習得する。帰国後、37年から音楽の授業を受け持つようになり、50年にバリ音楽学校の校長に就任、生涯教鞭を取り続けた。映画音楽は40年代から本格的に手がけ始め、「太陽がいっぱい」(60)、「ロミオとジュリエット」(68)、「ゴッドファーザー」(72)など、今なお映画ファンに愛され続けるスコアを発表。特にフェリーニ監督との名コンビは有名で、「白い酋長」(51)に始まり、「道」(54)、「白夜」(57)、「カビリアの夜」(57)、「甘い生活」(59)、「サテリコン」(69)、「フェリーニのローマ」(72)、そして「オーケストラ・リハーサル」(78)で幕を閉じるまで、合計16本の作品で巨匠の描き出す夢のような情景を美しい旋律で彩った。二人の代表作となった「81/2」(63)では伴奏音楽のみならず、役者として画面にも登場している。74年に「ゴッドファーザーPART
II」でアカデミー作曲賞を受賞。オーケストラ指揮の経験は数知れず、オペラや純音楽の分野でも偉大な功績を残している。79年4月10日、冠動脈血栓症のためローマで没。本名はニニ・リナルディ。 |
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マリサ・ソリナス
Marisa Solinas (第1話ヒロイン「ルチアーナ」役) |
1941年、ジェノバで生まれる。本作に続いてベルナルド・ベルトルッチの監督処女作「殺し」(62)に出演し、期待の新人女優として注目を集める。脇役が続いた後、65年、ウバルド・ラゴーナ監督(エドワード・ダイン名義)の「処女のめざめ」に主演。流れ者の男に身を捧げて裏切られ、真実の愛を知るヒロインを好演する。60年代後半からは、「Giarrettiera
Colt(ガーター・コルト)」(67)、「盲目ガンマン」(71)など、大流行したマカロニ・ウエスタン諸作に登板。艶やかな美貌で画面に華を添える。女優活動は80年代中頃まで続き、本格ドラマからエロティック物まで多数の出演作があるが、大半は日本未公開。最近になってアレックス・インファセリ監督の猟奇ミステリー「オールモスト・ブルー」(00)などで女優業を再開している。 |
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アニタ・エクバーグ
Anita Ekberg (第2話ヒロイン「アニータ」役) |
1931年9月29日、スウェーデンのマルモで誕生。7人兄妹に囲まれて育つ。50年にスウェーデン代表としてミス・ユニヴァースに出場。惜しくも優勝は逃したものの、米国のRKOと映画への出演契約が舞い込む。しかし具体的な結果には結びつかず、結局はユニヴァーサルと契約。アボット&コステロのSF喜劇「凸凹火星探検」(53)などの映画に端役出演を続ける。ハリウッドで恵まれない5年を過ごした後、ローマに渡って出演したフェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」(59)でのグラマーな演技と、本作で演じた巨大看板から抜け出る美女のセクシーぶりが評判となり、人気に火がついた。以後は主にヨーロッパを拠点に活動を続け、「イタリア式愛のテクニック」(66)、「女と女と女たち」(67)、「火曜日ならベルギーよ」(69)などに出演。時代が下がると豊満な肉体に不気味な貫禄が漂うようになり、「アマゾンズ黄金伝説」(78)、「レイプ・ショック」(79)、「S.H.E./クレオパトラ・ジャガー」(80)などのB級娯楽映画で怪演を披露。「インテルビスタ」(87)で久々にフェリーニ作品に登場し、その後も「リュシアン
赤い小人」(98)などの作品で特異な存在感を発揮している。私生活も華やかなロマンスと数々のスキャンダルに彩られ、俳優のアンソニー・スティールらと2度の結婚歴がある。本名はケルスティン・アニタ・マリアンネ・エクバーグ。 |
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ロミー・シュナイダー
Romy Schneider (第3話ヒロイン「プーペ」役) |
1938年9月28日、オーストリアのウィーンで誕生。本名はローズマリー・マグダレーナ・アルバッハ・レティ。両親も30年代に欧州映画界で活躍したスター俳優。ベルシュッテンガーデンとザルツブルグで基礎教育を受け、15歳の時に母マグダ・シュナイダーが主演した「Wenn
der weise Flieder wieder bluht(白いリラ)」(53)で映画デビュー。続いて出演した「女王さまはお若い」(54)、「プリンセス・シシー」(55)のお姫様役で、品の良い、愛らしい魅力を存分に発揮。国民的少女スターとして人気を博す。58年に「恋ひとすじに」で当時無名のアラン・ドロンと共演し、これが縁で翌年に婚約するも5年後に破局。だが、破れた恋を演技の糧に精力的な活動を続け、ルキノ・ヴィスコンティやテレンス・ヤング、オットー・プレミンジャーら名匠と組んだ作品で国際女優として着実に成長。「ルードウィヒ/神々の黄昏」(72)、「夕なぎ」(72)、「地獄の貴婦人」(74)、「追想」(75)と、次々に演技力を要するドラマティックな役柄に挑戦した。私生活では66年にドイツの俳優兼演出家のハリー・マイエンと結婚。翌年に長男が生まれ、しばらくは主婦業に専念するも、仕事復帰後の72年に離婚。75年には年下の恋人ダニエル・ビアシーニと再婚し、娘をもうけるが6年後には再び離婚。79年に前夫ハリーが自殺、81年には長男が事故死するなどの不幸を乗りこえて「サン・スーシの女」(82)を撮り上げるが、82年5月29日に心臓発作で急逝。原因は常用していた睡眠薬の大量摂取とされている。 |
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ソフィア・ローレン
Sophia Loren (第4話ヒロイン「ゾエ」役) |
1934年9月20日生まれ。本名はソフィア・ヴィラーニ・シコローネ。両親は正式な結婚をしておらず、父親は彼女が生まれると失踪。母妹と共にナポリ湾の北にあるポッツォーリの貧民街で育つ。16歳の時、170センチの長身と見事なプロポーションで“海の女王コンテスト”第2位に選ばれ、その賞金を元に俳優学校へ通う。やがてジョルジョ・ビアンキ監督の勧めでローマに移住。50年からエキストラとして映画にかかわるようになり、「寄席の脚光」(50)、「クォ・ヴァディス」(51)などに出演。しばらくはヌードを見せる役柄や雑誌モデルをして生活費を稼ぐ日々が続いたが、52年に“ミス・ローマ”の第2位に輝き、「Africa
sotto i mari(海底のアフリカ)」(53)に主演。この作品からソフィア・ローレンの芸名を名乗り始める。続く「ナポリの饗宴」(54)、「河の女」(55)で野性的な美貌が受けて人気に火がつく。56年にスタンリー・クレイマー監督の「誇りと情熱」でハリウッドに進出。以降、演技に磨きをかけ、肉体を売りにしたグラマー女優から、洗練されたゴージャスな魅力を備えた実力派に成長。「ふたりの女」(60)ではアカデミー主演女優賞を獲得し、名実共にイタリアを代表する大女優となった。私生活では、下積み時代からの公私に渡る協力者だったプロデューサのカルロ・ポンティと57年にメキシコで結婚。しかしローマ・カトリックの布教されていない当地ではポンティと先妻の離婚が認可されず、逆に重婚罪で告訴される結果に。その後、長い同棲生活を経て66年4月にパリで結婚が成立。イタリアの上告裁判でも重婚罪は却下された。数度の流産を経験後、68年に待望の第一子カルロ・ポンティJrを出産。73年に生まれた次男エドアルドは映画監督・脚本家として活躍中。 |