1916年12月24日、イタリア北部の都市カルピで誕生。ボローニャの音楽学校を経てローマ音楽院で作曲を学ぶ。当初はオペラの作曲家を目指したが、指揮者として迎え入れられたため、映画音楽の仕事に着手するようになる。戦前に製作された「Gli
Ultimi filibustieri(最後の海賊)」(42)で初めて単独のクレジットを得たが、映画界との結びつきが強まったのは、本作のピエトロ・ジェルミ監督と出会ってから。二人の初仕事となった「Gioventu
perduta(失われた青春)」(47)、続く「無法者の掟」(48)、そしてルイジ・ザンパ監督の「白い國境線」(50)などを手掛け、ようやく映画に音楽を付ける面白さに目覚めたという。「越境者」(50)以降はジェルミ作品には欠かせないコンポーザーとなり、「鉄道員」(56)、「わらの男」(57)、そして本作と次々に名スコアを発表。マイナーキーを多用した内向的で物悲しい旋律は日本人の好みとも良く合い、人気作曲家の一人に。また、アカデミー脚本賞に輝いた「イタリア式離婚狂騒曲」(61)からは米英での評価も高まった。ジェルミ監督作以外では、「祖国は誰のものぞ」(61)、「波止場」(63)、「愛すれど哀しく」(71)などが代表作で、ルイジ・コメンチーニ監督の「ブーベの恋人」(63)、「ミラノの恋人」(74)で奏でた哀愁のメロディーも忘れ難い。43年に生まれた娘アリダ・ケッリは女優、息子のパオロ・ルスティケリはB級映画を中心に手掛ける作曲家。ジム・マーフィーの変名も用いる。
クラウディア・カルディナーレ
Claudia Cardinale (アスンティナ)
1938年4月15日、チュニジアの首都チュニスで生まれる。両親はイタリアからの移民。子供の頃は教師を志していたが、57年にウニタリア・フィルム主催の映画祭がチュニスで開催された際、催し物のひとつだった美人コンテストに優勝。賞品のヴェニス旅行でカメラマンの目に止まり映画界へ。映画実験センターで基礎を学び、オマー・シャリフ主演のチュニジア映画「Goha
Le Simple(素朴なるゴハ)」(57)に端役出演。58年にマリオ・モニチェリ監督の「I
Soliti Ignoti(いつもの見知らぬ男たち)」で正式デビューを果たす。気の良いシチリア女性の役柄を得意とし、本作以降も「若者のすべて」(60)、「鞄を持った女」(60)、「山猫」(62)、「ブーベの恋人」(63)と作品に恵まれ、イタリアを代表するスター女優に成長。小麦色の肌にグラマーな肢体、素朴で親しみやすい個性で人気を集め、ブリジット・バルドーの愛称“BB”に対抗して“CC”のイニシャルで親しまれた。伊・仏・英語に精通した語学力を生かして63年からハリウッドへ進出。「ピンクの豹」(63)、「プロフェッショナル」(66)などに出演したが、決定打を出すまでには至らず。実際にはシワガレ声で、映画では吹替えが多かったとか。私生活では59年、同棲していたパスクァーレ・スクイティエリ監督との間に男児パトリックを、続けて女児をもうけたが破局。66年には彼女を育てた製作者のフランコ・クリスタルディと米国で極秘結婚(75年離婚)。この結婚と、弟と偽っていたパトリックが実は息子であることを週刊誌に暴露され、物議を醸した。